戦後のお稽古 ~うたまくら339号より - 正絃社

戦後のお稽古 ~うたまくら339号より

戦後のお稽古              野 村 秀 子

 正峰先生が作曲を試み始めたのは、昭和30年代後半。戦争が終わって平和な世の中になりましたが、お稽古を再開しても『若い世代の人たちに受け入れてもらえる曲がなければ箏曲は広まらない』と感じた正峰先生。その時代を読み、将来を見据えてこの道を拓いたと思います。

 一方、私の箏曲入門は昭和15年春、小学校三年生。その頃にもたった一度だけ、十七絃という楽器を見た記憶があります。入門集は「ロバサン、ロバサン、トコトット」と歌う譜本で、初心者が進度に応じて学べるような曲集はなく、習う曲は古曲と明治新曲ばかり、宮城道雄作品が目新しい新曲でした。戦後、暫くすると何人かの新しい作曲者が現れ、消えていきました。

 野村正峰が作曲家として登場するのは、古曲が主流だった時代から20年くらい後のことです。それまでに洋楽の編曲の試みなどを重ねていましたが、昭和39年、満を持して処女作の「長城の賦」を発表以来、当時の名古屋邦楽協会理事長・高木栄一郎氏から独立を薦められ、昭和40年、「箏曲正絃社」の名を挙げて家元を名乗りました。

 近代箏曲の祖・宮城道雄先生の作品も昭和31年のご逝去で途絶え、新曲に飢えていた昭和40年代、野村正峰作品は「宮城野」「旅路」「篝火」などの美しい旋律が好まれるとともに、「花かげ変奏曲」「日本のわらべ唄」「花と少女」などの初心者が楽しく弾ける曲が重宝されて、急速に広まっていったように思います。

「宮城野」では「平調子から調絃をどうやって合わせるのか教えてほしい」という質問がありました。現代のようにチューナーがない時代で、古曲中心のお稽古では「短音階」もわからない先生がいらしたのでしょう。そこで私は、西洋音楽の基礎的な知識と日本の音階を結びつける工夫のなかから楽理の本「教養のための箏の常識と楽理のお話」を出版するに至りました。

 また、日本の伝統文化である箏曲の素晴らしさを広めるという崇高な目標に向かって創作活動に邁進する正峰先生の仕事の手助けとなり、多くの皆さまにお箏を楽しく弾いていただけるよう、読みやすい譜面の工夫に努めました。 

 押えなどで左手を使う場所がページのめくりにかかるところでは、次のページを欄外に記譜してスムーズに弾けるようにして、長い休みがある時には他のパートの旋律を書き入れて待ちやすくしました。三絃譜では、めくりやすい箇所がページの最後にくるように、ページの行数を変えたり試行錯誤の作業でした。

 手間のかかることを、我ながらよくやってきたと振り返っていますが、正峰先生も、自分が演奏するときには、「楽譜が見やすくないと演奏しにくいんだ。」と、まず楽譜を整備していました。よい演奏のためには解りやすい楽譜が大切なので、こうした工夫が皆さまのよい演奏に繋がると信じています。

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