野村倫子 - 正絃社

野村倫子

野村家の45年 ~ 野村 倫子 ~

私が、幼少期を過ごした昭和40年代は、正絃社創立期まっただ中、名古屋市守山区の自宅には、父、母と私たち3姉妹(祐子・哲子・倫子)、祖母のほか、内弟子さん二人とお手伝いさんの合計9人が住み暮らしていました。

倫子と正峰

父母は、中区新栄の現在の本部近くにあった教室に出かけると、帰りは夜遅く、ほとんど顔を合わせることのない毎日。不憫に思ってか、祖母は、私を ことさら可愛がってくれました。祖母と布団を並べて寝ていると、座敷のふすまが、そっと開き、父と母のシルエット。二言三言、会話を交わす祖母のくぐもっ た声が、今も思い起こされます。
守山の自宅の教室にも、もちろんお弟子さんが多くお稽古に来られるので、父・母が交代で居残り、姉が成長してくると、内弟子さんとともに指導にあたっていました。
姉(祐子)は、子どもの私の眼からは何しろ勉強家で、私と哲子の憧れでもあり、尊敬の対象でした。そんな姉が、暗譜が出来ないと泣きながら、練習をしていた姿が懐かしく思い出されます。
私が中学生の頃、庭で転んだ祖母が、やがて寝込むようになって、母が介護のかたわら稽古に残り、祖母が帰らぬ人となってからも、母は自宅に居るようになりました。

その頃からの体制は、父が新栄の本部教室を管理、姉(祐子)は関東方面の足がかりを求めて東京(新橋)教室への出張と本部の助手、兄(峰山)も経理の補助と尺八の指導。
一方、自宅教室に移り、日中も一緒に過ごすようになった母は、何しろよく働くこと。お稽古の合間に、お料理、家事全般、そして楽譜書きなどの仕 事、さらには洋服を作ることも。当時、家の建て替えなどもあり、設計図を微にいり細をうがつように、チェックしながら、頭の中で完成図を描いているよう。 母の別な一面を見た気がしたものでした。

そして、NHK邦楽技能者育成会を終えた姉の哲子が、本部勤務となり、そのころ生まれた玲子、幹人と家でゴロゴロできるのは、大学生の私ひとり。それはそれで、賑やかな8人家族を満喫していたその時、思いもよらなかった一つの転機が訪れました。
父、心筋梗塞で倒れる!!

日中、時間に余裕のあった私と、母が、交替で過ごした父の付き添い生活。この半年間のことは、あまり思い出したくありません。
それから私は、大学を卒業して正絃社本部へ勤務するようになり、入れ替わるように、姉哲子は、関東、東北方面の充実と、地唄の勉強のため、東京に 在住することになりました。野村家初の独立、一人暮らし。羨望の眼差しを向ける私でしたが、自立心旺盛な姉にも、辛いこと、時には寂しいことがあったと思 います。それを持ち前の明るさ、バイタリティで力に変え、たびたびの東京教室の移転、改築など、独力で何度もこなしてしまいました。
平成2年、古くからの会員の方には御馴染みの、本屋さんの2階にあった本部教室から、現在の正絃社会館へ建て替え。新しい教室は、5階建てのビルになりました。 

その後、私は、縁あって、新曲系作曲家の水野利彦と結婚して独立。守山から離れ、正絃社会館近くに家を構えました。守山で育った、玲子、幹人がそれぞれ進学のため、東京へ。
一時は9人に膨れた大所帯でしたが、守山の自宅に常時、住み暮らすのは、父と母のみ。東奔西走する私たち次世代の話題を、目を細めながら聞き、過去の経験、長年の智恵や知識で、的確なアドバイスをこよなくしてくれます。

野村家の歴史の次なる転機は、正絃社の法人化。
今後の時代に対応すべく、父の個人経営から会社組織へ。兄(峰山)の働きで、祐子を家元とする箏曲団体の箏曲正絃社のほかに、株式会社正絃社を起 こしました。日々、演奏、指導その他忙しい兄にとって、大変な労力だったと思います。訳の分からないまま、正絃社の転換を眺めるばかりの私には、兄の白髪 が増え、痩せていく様子が心配でした。

こうして、次世代への継続と発展を遂げてきた正絃社ですが、いま、私が望むことは、ただひとつ。
この愛する正絃社を創立してくれた父と母が、元気に長生きしてくれることのみ。

私が子供の頃、家にいたように、静かに家に居てくれる父と母、すっかり居場所が逆になってしまいましたが、心に秘める思いはみな同じです。この同 じ思いを、家族、支えてくださる門人、そして、正絃社を愛してくださるかたがたとともに胸に抱きながら、明日への活力としたいと思います。
さて、この45年の歴史には、もうすでに次への布石があります。これは編集後記をご覧いただき、また、次回へのお楽しみということでペンを置きます。

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