野村秀子
創立45周年 ~ 野村 秀子 ~
「ユウコはいくつかな?」
3才ぐらいのユウコを、膝に乗せていつも歳を訊く正峰センセに、
「三つだよ、おとうさん、いいかげんにおぼえて。ユウコだって、角のパン屋さんに行くのに、ショッパン、ショッパンって言って、忘れないようにしてるよ。」
祐子がまだ幼い頃、正峰センセの表の顔は県庁職員、裏では尺八や箏の先生。というのも、両親が教育者で、母親は家庭に入ってからは箏曲の道に転身したとは 言え、父親にとっては箏なんぞ女子供の玩び、長男が箏曲を職業に選ぶなど、到底許せるものではなかったようでした。とりあえず正業について、親、世間の目 を欺き、女房の私の名前を使って箏の先生。公務員は、副業禁止なのです。
世間は戦後の復興に明るい兆しが指してきたとはいえ、家族3人ようやくの生活で先が見えないそのころ、正峰センセの鬱積した胸の内を晴らすものはパチンコや、誘われるままの徹夜麻雀。時折、思い直して、楽典を読んだり作品の試作をしたり、思えば長い雌伏の時でした。
昭和35年夏、父親の急逝。脳梗塞か、くも膜下出血か、その当時の医学ではわかりませんでした。
翌年春、県庁退職、晴れて邦楽一本道へ。邦楽協会の委員でも一目おかれる存在となり、協会も上向きの時勢。理事長・高木栄一郎氏が後援してくださり、三曲部門の演奏会も活発でした。
昭和39年、「長城の賦」の発表。これを聴かれた高木栄一郎氏に強く薦められ、「正絃社」への発展的改称を決意、昭和40年一月一日、新しい一歩を踏み出しました。これ以前の会員の芸歴が、正絃社歴の45年以上に及ぶのは、こうしたわけです。
ちなみに正絃社創立以前からの歴史は、おおよそ現家元・祐子の年齢に重なり、正絃社創立年に生まれた倫子は、正絃社の年齢そのものです。
振り返る日々の思い出には、「箏曲入門集№1」の編纂秘話、立奏台の製作のきっかけ、楽理の本の執筆など、45年の歴史は長く、一度には語り尽くせませんので、次号のお楽しみといたしましょう。