曲目解説(た行) - 正絃社

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曲目解説(た行)

大河(たいが)/野村正峰作曲

器楽としての三味線の面白さをアピールする作品をという発送から作曲したのが「春景八章」(1970)ですが、その後、三重奏曲をという要望もあって書 きおろしたのがこの「大河」です。高音の2パートは地歌三味線、低音の第3パートには津軽または義太夫の太棹を使うという編成で作曲しました。
内容は、詩情、牧歌、激流の三つの部分から成り、作品の底流には私の大好きな万葉詩人、柿本人麻呂の歌

もののふの 八十氏河の網代木に
いざよう波の ゆくえ知らずも

の歌によせる深い感概が渦巻いています。偉大なる歌聖の心に迫るには遥かに及ばないとしても、いざよう波に自分の運命を観照する人麻呂のポーズに激しく憧憬しつつ・・・

竜飛崎へ(たっぴみさきへ)/野村正峰作曲

1992年8月に青森県の門人の案内で、津軽半島の北端、竜飛崎を訪れました。 海峡を望む風の強い岬には、怪鳥のような形をした風力発電の塔が林立して、一種異様な光景で旅情をそそります。また、津軽半島を日本海ぞいに北進した国道 339号線は、ここで全国に例のない階段の道になり、海を望んで終わるのにも感慨があります。半島の南の金木町には、夭折した作家太宰治の生家がありま す。赤い棟瓦づくりのその館は記念館として遺品を展示しています。この地は冬は雪深いところで、地吹雪の里としても知られています。
北前船や安東水軍の興亡の歴史にも興味を覚え、資料をもとめて十三湖のある市浦町へも訪れました。 中世には、北辺の海産物を近畿地方へ送る天然の良港として栄えたとのことですが、1341年の地震と大津波で壊滅し、今では、水軍や北前船の歴史と十三の砂山の民謡だけが残っています。
この作品の三つの歌では、それぞれ別の内容を歌いますが、この津軽半島の旅にかかわる思い出から強く心に残ったことを、エトランゼの歌日記として書きとめたものです。

1995年作曲

バテレンのわざあや妖しけれ  エレキなすちょう風の塔
白き輝きおおとりの    銀河を指して憩うなる
みはるかす蝦夷松前よ   きざはし階段のみち国道みなぞこ水底へ
さいはての海みどり碧濃く   たっぴ竜飛みさき崎と人はいう

地吹雪ぞする冬の朝    斜陽きびしき夏のよべ夕
さいはての街秘めやかに  君がやどりを守るなる
君などか道を急ぎしや   世の憂いをば身に集め
絶ちにし才の惜しまるる  れんが煉瓦やかたの筆の跡

天は叫びて地は震え    さ裂けたる海にうず埋もれし
水軍の城今いずこ     とさ十三のみなと湊は砂の下
にしん御殿の賑わいや   砂山のごと積みし米
しゃくどう赤銅の肌厚き胸     海の男の物語

七夕の宵(たなばたのよい)/野村正峰作曲

七夕まつりの夕べの思いを綴った箏独奏用の小品です。
牽牛、織女の伝説も、笹竹に願いごとを書いて飾る行事も、都会では遠い昔の思い出となってしまいました。デラックスに観光化した七夕ではなく、近所隣が皆 笹竹を立て、子供たちが夜店の賑わいの中をはしゃいで走りまわった、古きよき時代の七夕を偲ぶ素朴なメロディで書いたものです。

(1976年作品)

旅路(たびじ)/野村正峰作曲

人生を長い旅路と考えると、そこには起伏果てしない多くの艱難辛苦が待ちうけています。この曲は、人生の旅路を三つの楽章に描いた作品です。
第1楽章 放浪
ホ短調を主調とするなかに、日本民謡風の音階の茫洋とした味わいを織りこんで、夢多き青春時代の回想。
第2楽章 逡巡(じゅんじゅん)
短音階から変形したジプシー音階を用いて、誘惑や迷いと戦いながら人生行路の指針を決めかねた苦悩の時代を表現。
第3楽章 新しい門出
和声短音階で歌いあげる快活な希望の歌。

(1967年作品)

たまゆら(たまゆら)/野村正峰作曲

「たまゆらの露も涙もとどまらず亡き人恋ふる宿の秋風」
春に母を失った藤原定家(1241夜・80歳)は、その年の秋、野分(のわき)の吹く頃、以前に母と共に住んでいた家を訪れてこの歌を詠みました。(新古今和歌集・巻第八)
はらはらと露のようにこぼれてとどまらぬ涙、 静かな、 深い悲しみがひしひしと伝わってくる歌です。この歌への共感は、ちょうどその頃、仕事に追われていた私が、敬愛していた人の臨終に居あわせることができな かったことで増幅されました。何ものかに託し、その心情を叙べたいという想念がこの曲になったともいえましょうか。挽歌です・・・。

断想(だんそう)/野村正峰作曲

日本音楽独特の陰旋音階と、沖縄の琉球民謡の音階に、意外な共通性を見出した考察か
ら、琉球音階を使った純器楽的な独奏曲として書かれた作品です。
古典箏曲の段もののような定型的なリズムのパターンを持たない、気まぐれのようなリズムの面白さを味わいながら、わずかな絃の移動のみで、琉球音階から陰旋音階への転調を行い、調性を変えた曲調を楽しむ趣向となっています。

1975年作曲

長城の賦(ちょうじょうのふ)/野村正峰作曲

上井晩翠の「万里長城の歌」の抜粋歌を歌う野村正峰処女作。箏高低2部、十七絃、尺八に、華やかな箏の独奏部が活躍し、力強い男声二部合唱に女声を加えた3楽章から成ります。

(1964年作曲)

第1楽章 長城の叙景詩、懐古と詠嘆のうた 
第2楽章 秦の始皇帝の偉業を偲ぶ、孤高の詩人の悲愁の姿 
第3楽章 長城讃歌、中国民謡の旋律を間奏に織りこんで

  1. 生ける歴史か積もり来し  齢(よわい)は高し二千年  影は万里の空に入る
    名も長城の壁の上     落日低く雲淡(あわ)く   関山(かんざん)みすみす暮の色
    征(せい)馬(ば)いたみて留(とどま)りて    遊(ゆう)子(し)俯(ふ)仰(ぎょう)の影長く
  2. 絶域(ぜついき)花は稀(まれ)ながら     平(へい)蕪(ぶ)の緑今深し   春(はる)乾坤(けんこん)に回(めぐ)りては
    空ことごとく霞みゆく   天地の色は老いずして  人間の世はうつろうを
    歌うか高く大空に     姿は見えぬ夕ひばり
  3. ああ跡古りぬ人去りぬ   歳(とし)は流れぬ千載(せんざい)の  昔にかえり何の地か
    今(いま)秦(しん)皇(こう)の覇図(はと)を見ん    残塁破壁(ざんるいはへき)声もなく  恨みも暗し夕ぐれの
    春もうろうのただなかに  俯仰の遊子影一つ
  4. 晴れざる空に虹かけし   複(ふく)道(どう)の跡今いずれ  雲あらざるに龍(りゅう)飛べる
    長橋(ちょうきょう)の影はたいかに   其の移りゆく世のならい  二(に)京(きょう)の花をよそにして
    辺土(へんど)に立てる長城の    連(れん)雲(うん)の影ああ絶えず

~八千代獅子に寄せて~千代の華(ちよのはな)/舞林紋呂作詞 野村祐子作曲

神社に置かれる「獅子」は、魔除けや瑞祥の象徴で百獣の王ライオンを象ったものですが、獅子舞などの題材を取り入れた舞踊、音曲は慶事の演奏に喜ばれ、「獅子」の名がつけられた曲を「獅子物」と呼んでいます。
この曲は、祝儀曲で代表的な「八千代獅子」に寄せて作詞された現代版の三絃地歌「千代の華」を主軸に、箏・十七絃・尺八を加えて華やかな合奏曲としたものです。「獅子物」にあやかり、「八千代獅子」「吾妻獅子」「越後獅子」の旋律の片鱗を随所に散りばめ、艶やかな高音箏のソロが合奏群を彩ります。
後歌の文頭5行には、祝意を表す趣向を凝らし、お・め・で・と・うを詠い込んでいます

第31回国民文化祭・あいち2016邦楽の祭典~愛知から未来へ響く伝統の調べ オープニング記念作品

(2016年5月作曲)

沈影(ちんえい)/野村祐子作曲

滋賀県には日本最大の湖、琵琶湖があります。湖の周辺は古来景勝地が多く、紀元  1500年頃、近衛政家が近江八景を選んだのが有名です。

1.三井の晩鐘  2.石山の秋月  3.堅田の落雁  4.粟津の晴嵐    5.矢橋の帰帆  6.比良の暮雪  7.唐崎の夜雨  8.瀬田の夕照

時代とともに環境が変化し、近年ではこれらにかわって琵琶湖八景として、次が選 ばれています。
1.瀬田石山の静流  2.比叡の樹林  3.雄松崎の白汀  4.海津大崎の岩礁   5.賤ヶ岳の大観   6.彦根の古城  7.安土八幡の水郷 8.竹生島の沈影

竹生島は、琵琶湖の北端、湖の最も深いところにある小さな島ですが、湖水の深い 碧にうつった島の影が、まさに沈影とよぶにふさわしい静かな美しさを呈しています。 湖に浮かぶ竹生島の美しい印象をもとに作曲したものです。

(1983年野村祐子作曲)

津軽幻想(つがるげんそう)/野村祐子作曲

第1楽章 遥かなる津軽
本州最北端の地、津軽平野へ足を踏みいれた感慨を描きました。津軽といえば、なんといってもまず「じょんがら節」。この曲では奥南部の津軽じょんがら(新節・古調)を取り入れて、三絃の聞かせどころとしました。
第2楽章 雪の八甲田
「八甲田山」は、青森市の南にそびえ立ち、映画のタイトルにもなった景勝地です。一面、雪に覆われた白銀の世界の美しさと反した、厳しい津軽の冬を表しました。
第3楽章 ねぶた祭り
津軽の夏は、祭りの季節。人々はねぶた祭りに燃えます。夏の夕暮、太陽の沈み始めるころ、青森の街は、何処からともなくやってきた祭りを待つ人々のざわ めきで、賑わってきます。やがて、遠くから祭りの大太鼓の響きが伝わり、ねぶたの行進が始まります。威勢のよい祭りの太鼓や笛がひびき、鈴をつけた浴衣に 赤や黄色のたすきをかけた「はねっと」や「ばけっと」たちが踊ったり跳ねたり、「ラッセ、ラッセ」のかけ声とともに、祭りは最高潮を迎えます。そして、い つしかお囃子の音は幾分寂しいメロディに変わり、ねぶたの行進は遠ざかってゆきます。

(1989年作曲)

月に寄せる日本のうた(つきによせるにほんのうた)/野村祐子編作曲

いにしえより月への想いは、数多くの歌や物語に著されてきました。
夢やロマン、愛する人への想いを月に託し、喜びや悲しみをうたった作品は、いつでも私たちの胸に深い感動を与えてくれます。月を題材にした歌のなかから、 7曲を選びました。 世界にその名を残した滝廉太郎の名作「荒城の月」、春の夕暮れが目に浮かぶ「朧月夜」、こどものころ『月にはうさぎがいるのよ』と教えられたことを思い出 す「うさぎ」、そのメロディが取り入れられた「十五夜お月さん」、大人の哀愁の「宵待草」、らくだに揺られる王子さまとお姫さまの旅物語「月の砂漠」、そ して最後は、陽気に踊り出したくなる民謡「炭坑節」で、賑やかにお月様を眺める趣向です。多くのパートで合奏をお楽しみください。

(2003年編曲)

月の砂漠(つきのさばく)/野村正峰作曲

ポピュラーな歌曲の編曲について、できるだけ平調子、雲井調子など、古来からの調絃法を使うように努力していますが、音階上ドレミ調絃でなくては できないものもあります。「月の砂漠」と「森の小人」はやむなくドレミ調絃にしてありますが、続けて演奏できるように、調絃をあまり変えないで編曲しまし た。

月の船(つきのふね)/野村正峰作曲

天(あめ)の海に 雲の波立ち 月の船
星の林に 漕ぎかくる見ゆ (万葉集巻7 柿本人麻呂 1068)

空を海に、上弦の三日月を船に見立てて、月が雲の波をおしわけ星の林に漕ぎ進んでいくという情景描写に、人類の太古からの空への憧れの心を歌った ものでしょうか。壮大な叙景に、SF的なロマンさえ漂わせた、この歌の魅力にぐんぐん引きつけられるものを感じたのが作曲の動機となっています。  曲中、天の海を「あめ」と古語風に発音すると「雨」と聞き違えるため、この曲では「あま」と発音しています。曲の編成は、箏高低2部、三絃、十七絃、尺 八の五重奏ですが、三絃と十七絃の独奏部が腕の見せ所となっています。

(1977年作曲)

月やあらぬ(つきやあらぬ)/野村正峰作曲

この曲は、地歌風の三絃独奏曲「あずま路を行く業平」の題で平成11年に発表したのち、箏曲を伴う古典風の歌曲に改編したものです。
伊勢物語より、在原業平の作とされる第四段の歌に、あずま下りの章段の歌物語に唱和した詩句を連ね、物語のなかに見える貴族社会の綾なす人間関係に思いを寄せてみました。

(2002年改作)

伊勢物語第四段の歌             
在原業平の作とされる     
月やあらぬ 春やむかしの春ならぬ
わが身ひとつは もとの身にして

駿河路を行く在原業平の歌に唱和した歌詞
野村正峰作詞
都落ちする貴人の 思いも晴れぬ駿河路は
時しらず降る白雪に 鹿の子まじりのふじの嶺
うつの山辺の蔦の道 忘れがてなる唐衣
夢にも見ずと言つけし 文のことばのうつつなる 

つくしの旅(つくしのたび)/野村正峰作曲

九州地方の民謡より、「博多どんたく」の華麗さ、「黒田節」の荘重さ、「刈干切唄」の哀愁、「おてもやん」の諧謔味、「おはら節」の素朴な快活さ、それぞれの曲の持ち味の対比の面白さを生かした楽しいメドレーです。

(1968年作品)

典雅(てんが)/野村祐子作曲

「源氏物語」若菜の巻を題材に、古典風な合奏曲を意図して書いた作品です。

「十才ほどの女の子が、白い下着の上に山吹がさねの着古したものを着て走って来ました。そこらの多くの童女たちとは似ても似つかぬ可愛らしい顔・・・源氏と紫の初めての出会い・・・源氏はその顔立ちの中に、許されぬ恋人、父帝の女御、藤壺の面影を見るのでした。」

美しい王朝絵巻の登場人物、平安貴族の管絃の遊びなどの幻想を、陰旋音階と陽旋音階を用いた華やかな合奏に仕上げました。

(1984年作曲)

作・邦楽組曲「近江羽衣抄」より 天女の舞(てんにょのまい)/前原和比古作詞 野村祐子作曲

邦楽と舞踊による組曲「近江羽衣抄」は、滋賀県に伝えられる民話を、歌と箏・十七絃、地歌三絃、尺八、語りによる組曲に構成し、舞踊で彩る舞台演出の作品です。「天女の舞」は、この組曲の中で、羽衣を手にして喜んで空へ昇る天女の舞を表現した合奏曲です。

(2014年6月作曲)

桃李の郷(とうりのさと)/野村正峰作曲

日本では故事、ことわざというと、中国の古典にそのみなもとを発しているものが多いのですが、『とうり桃李』(もも・すもも)という、これは果物の名ではありますが、漢文好みの知識階級に好まれてきた字句があります。
『桃李門に満つ』というと優秀な門下生がたくさんいることのたとえで、これは中国の春秋時代[BC770~403]からの文献にしばしば見られ ます。また『桃李もの言わざれども下おのずから蹊(けい・こみち)を成す』(史記)という諺は、徳望のある人はみずから求めなくても、人々が慕いよってく ることのたとえです。
この曲の作曲意図は、これらの故事を踏まえたものであることは言うまでもありませんが、具体的には、万葉歌人でしかも当時隋一の知識人でもあった大伴家持の歌
春のその苑  くれない紅にほふ桃の花 下で照る道に 出で立つをとめ (万葉集4139)
我が園の すもも李の花が庭に散る はだれの未だ残りたるかも  ( 同 4140)
に触発され、さらには中国の文人陶淵明(とうえんめい)[365~427]の名文『桃花源記』にしょうよう慫慂されたものであります。作曲は当初 『桃花譜』として発表したものですが、ユートピア、すなわち戦乱のない平和郷を意味する桃源の意味を、近来の日本人は極めて低俗な意味に解釈するのが面白 くなく、あえて古文献をふまえた曲名の撰に改めたものです。

作曲年代:2000年4月

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