曲目解説 - 正絃社

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曲目解説(あ行)

会津の残照(あいづのざんしょう)/野村正峰作曲

作曲の120年前、暦では戊辰の年、慶応4年(1868) は、旧暦1月3日の鳥羽伏見の戦いに始まり、秋深まりゆく9月22日の会津若松城の落城に終わる、国をあげての動乱の年でした。
世に戊辰戦争という一連の戦いは、わが国の近世から現代ヘの脱度の戦いではありましたが、歴史では「勝てば官軍」の諺どおり、敗れた側を不当に辱めてきた嫌いがありました。
しかし、義によって古い体制に殉じていった若い命は、武士らしい武士の少なくなった幕末には、最後の武士の気概を人々の心に灼きつけました。

秋のうた(あきのうた)/野村正峰作曲

秋を歌った三つの唱歌「里の秋」(海沼実作曲)、「虫の楽隊」(田村虎蔵作曲)、「村祭」(文部省唱歌・南能衛作曲)をメドレーとしてまとめたものです。それぞれの歌の雰囲気に合わせた前奏と間奏で、初学者の方にも楽しみながら練習できるよう、第一箏はやさしい手法の中に、散し爪、すくい爪、ピチィカットなどを学べるよう配慮し、第二箏の分散和音は第一箏の旋律と美しく調和して、静かな秋の風物詩を奏でます。  (1965年編作曲)

秋の歳時記(あきのさいじき) /野村正峰作曲

最も秋らしく感じる行事三題を選び、おのおの独立した楽章として描いてみました。

  1. 菊人形
    城下町の多い日本では、お城の広場や史跡の公園などで菊人形展が開かれます。名俳優が大見得を切る場面や、その土地に関わる英雄や偉人などが、色とりどりの菊花で美しく飾りつけられます。  雲一つない秋晴れの空の下で、人形たちが義太夫三味線の響きにのって、今にも踊り出すような感じをあらわしてみました。
  2. お月見
    旧暦八月十五夜は月の一番美しい夜、日本古来の風習で、月にお供え物をしたり、親しい者同志の月見の宴を開いたりします。目に見えぬ秋風にすすきの穂がそよぎ、草の根にすだく虫の音が興趣をそえます。
    月の出を心待ちにする人々の、静かなさざめきのとき…月にむら雲とは生憎の、雲ひとつない月夜ばかりではなく、時には薄気味悪い雲が、月を見え隠れさせます。しかし、雲の絶え間から時おり見える月を待つのもまた一興と言えましょう。
  3. 豊年祭
    みのりの秋、五穀豊饒を感謝し、来る年来る年の豊年を祈る祭りは農村のイベントでしょうか。旋転するアップテンポの笛の遠音、狂瀾する大太鼓のリズムに交じるお国自慢のハリのある民謡、素朴な村祭りの情景を描いてみました。

(1984年作曲)

秋の讃歌(あきのさんか)/野村正峰作曲

落葉が一葉また一葉と散る秋の情景、邦楽でも西山検校の作品、秋の言の葉のイントロが、「散り初むる桐の一葉に・・・・」とありますように、秋のイントロは落葉にしくはなし、とおもいました。

「秋の日の ヴィオロンの ためいきの
     身にしみて ひたぶるに うら悲し」
             ヴェルレーヌ(上田敏訳詩)

第1楽章・叙景  落葉、虫の音、村祭の印象など、秋の風物に寄せる想い
第2楽章・抒情  萬物凋落の秋のもの悲しさ
第3楽章・讃歌  澄み渡った秋空の下、静かではあるが華麗な讃歌を奏でる躍動的な終曲

(1986年作品)

秋の七種(あきのななくさ)/野村正峰作曲

万葉集第八より山上(やまのうえの)臣(おみ)憶(おく)良(ら)の、秋の野の花を詠む二首を、古典風な歌ものとした作品です。

  秋の野に 咲きたる花を指折りて
      かき数うれば 七草の花
  萩の花 尾花葛(くず)花 なでしこの花
      女郎花 また藤(ふじ)袴(ばかま) 朝貌(あさがお)の花

前の歌は五・七・五・七・七の五句三十一音の短歌ですが、後の歌は五・七・七・五・七・七の六句から成る旋頭歌です。 秋の雰囲気を表す短い前弾き、「指折りて」花を数えるような前歌に続く手事、後歌ではひとつひとつの花の雰囲気に合わせた愛らしい節付けに、短い後弾きが付けられ、手事もの風にまとめられています。

1986年作曲

あけぼの(あけぼの)/野村正峰作曲

 春は、 あけぼの。 やうやうしろくなりゆく山ぎは、
     すこしあかりて、
         紫だちたる雲のほそくたなびきたる・・・・

文学少女ならずとも、現代も高校の国語の科目の中で、避けて通ることのできない古典のひとつが、清少納言の著作「枕草子」であり、そこでは、この詩のように美しい短文がまず冒頭に出てきます。
左様、この私の作品は、約千年昔の王朝時代、清少納言が、春の中で一番素晴らしいものは、何といっても「これ」、と推奨を極めた「あけぼの」をえがいてみたいと意図したものです。清少納言は、身分の低い官吏の娘から、その才能を認められて抜擢され、定子皇后の側近に仕えることになりました。それだけに、著作の随所に、高貴の人たちのみが用いることの出来た、「紫」や「白」の色への憧れの心が見えかくれします。この冒頭の「春はあけぼの」の章にも、まずその白と紫が出て、これが作曲のあいだ中、気になってしまうのです。王朝時代の日本人の音楽的感性は、雅楽の古譜のようなものから、漠然と想像するほかはありませんが、少なくとも、中国とか朝鮮半島から渡来した異国情緒の音楽が、まだ確然と日本化しないまま、流行していたと思われます。
この曲は、これらさまざまな想念とともに、音階を特定せず、基本的には陽旋音階でもない、陰旋音階でもない、しいて言うならば、 上行も下行もない自由な陰旋音階とでも言うような音階で、何となく古典的ムードで、手軽に合奏できる曲に書きあげてみたものです。

紫陽花(あじさい)/野村祐子作曲

梅雨のころは、紫陽花の美しい季節です。
雨で洗われた庭先に、水もしたたる緑の鮮やかさ。はじめは目立たなかった空色は、一雨ごとに白から薄紅、青紫、赤紫へと色を変え、雨の滴もその色に染められるかのようにみえます。色うつりゆく紫陽花を眺めながら、万葉のうたをひも解くと、いにしえ人の心美しいうたがありました。

(1991年作曲)

  紫陽花の八重咲くごとくやつ代にを
       いませわが背子見つつ偲ばむ
               橘 諸兄(たちばなのもろえ)

馬酔木の花(あしびのはな)/野村倫子編作曲

本編に使われた作品の原作者、藤井清水(きよみ)は、明治22年に広島県呉市に生まれました。(1889~1944)呉市は瀬戸内海のほぼ中央に位置し、気候温暖な都市で、風光明媚、自然環境に恵まれてはいますが、市街地の半分は山林に占められ、山と海の生活が密着した環境です。
母親が三味線の名手で、兄たちもまた義太夫三味線を習っていた影響で、邦楽を体に感じながら育っていったようです。その才能は音楽のみならず、美術にも、英文学にも秀でていたといわれます。東京音楽学校(現東京芸術大学)に進学したのち、小倉高等女学校教諭に就任、その後、作曲家山田耕筰(こうさく)の推薦で、大阪市北市民館に勤務したのち、野口雨情の勧めで東京に転居し、作曲に専念しました。作品は、民謡、唱歌、歌曲、童謡と様々なジャンルにわたり、その数は、1900曲以上に及んでいます。 作品の音楽性の高さは、当時、作曲家として、高く評価されていた山田耕筰に「自分がドイツで5年間もかかって苦心研究したことを藤井君は日本にいて平気でやっている」と言わせたほどでした。 しかし、これほどの作曲家の知名度が意外に低いのは、その内容の芸術性が高すぎたのと、真面目な性格から、商業的な安易な作曲をしなかったことに因ると思われます。
本編は、この藤井清水の作品中「磯原節」「土投げ唄」「馬酔木(あしび)の花の」「信田の藪」の4曲をとりあげ、接続部に私のオリジナルを交えながら一つの曲にしたものです。原作は、まさに、陰旋音階や陽旋音階といった日本の音階で書かれており、その中に、一瞬、別の音階を使うことにより、もとの音階をより光らせ、際(きわ)立たせるという技法が素晴らしい着想であるなど、原作の意図を生かせるよう苦心しました。
~藤井清水音楽祭実行委員会委嘱作品~

阿蘇讃歌(あそさんか)/野村正峰作曲

九州熊本県に阿蘇火山帯を訪ねたときの印象を詩に、スケールの大きい交声曲に作曲したものです。遥かなる阿蘇、うるわしき山、雄々しい山、貴い山、祈り、の五つの詩で雄大な阿蘇に託した九州人の希望を高らかに歌います。

(1978年作品)

   火の国の 火の国の 阿蘇ははろけし 遥かなる山
   幾百万の 永劫のとき 造化の神の 築き給いし
   外輪の山 壁とつらなり 長城なして 聖火を護るなり

   火の国の 火の国の 阿蘇はうるわし 乙女なる山
   茫々千里 緑のしとね 風音もなく 草は戦ぎて
   牛は佇み 影絵のごとし 馬肥ゆれども 牧歌などか悲しき

   火の国の 火の国の 阿蘇はやたけし もののふの山
   時きたりなば 火と燃えいでて 怒りのほむら 不動もかくや
   噴煙天を衝いて 大地は雄叫び 灼熱のマグマは 世の塵を焼く
 
   火の国の 火の国の 阿蘇はとうとし 仰ぎみる山
   天地創造の 荘厳のとき 造化の神は 祈りをこめて
   白煙高く 天に冲げぬ 火の国の民 栄えあれかしと

   ああ ああ 阿蘇は 阿蘇は とうとし 神々の山
   とこしえに とこしえに 夢と希望を 空にかかげよ
   夢と希望を 空にかかげよ

遊びをせんとや(あそびをせんとや)/野村正峰作曲

11世紀後半、今様(いまよう)という歌謡が、愛唱されたと伝えられます。後白河法皇(1127~1192)は、幅広い芸能に造詣深く、当時流行した今様を、梁塵秘抄という歌集に編集なさっておられます。この全集には、歌詞ばかりでなく歌唱法の収録もされていたようですが、大半は失われ、まことに惜しいといわれています。 秘抄の中から、可愛い子供たちの戯れ遊ぶ声に感動しているおとなと、子供たちの遊び歌らしい歌詞の一節を選んでみました。

(2002年作曲)

あやとり(あやとり)/野村祐子作曲

幼い日々の思い出の、女の子の遊戯をいくつかあげると、あやとり、おはじき、着せ替え人形、お手玉などでしょうか。これらの遊びの中には、平安貴族の子女 の遊びから次第に変化してきた遊び方もあるようです。 細紐一本で遊べる「あやとり」。飽くことなく、紐と指とで描き出す造形の繰り返しのうちに、まるで 子供達が時間を操り、時をあやとっているような幻想に襲われて曲を綴ってみました。 

1984年作曲

いつしか時は過ぎゆきて(いつしかときはすぎゆきて)/野村祐子作曲

 人は、それぞれ独自の人生を歩いていても、昨日から今日、そして明日への道程は総ての人に等しく訪れ、等しく過ぎてゆきます。歳月は人を待たず。昨日に とっては未来だった今日という日も、明日になればもう過去に加えられます。喜びも悲しみも、悠久の時の流れによって過去へと運ばれ、やがて忘却のかなたへ 消え去ります。

 この曲は、作者が大いなる歴史のページの片隅に生きた証しとしてメモリアルの意味をこめて書いたもので、  

   過去-追憶  現在-試行  未来-希望 

の三つの章から成り、特に珍しい試みとして、古い伝統楽器である三味線と、邦楽器としては歴史の浅い十七絃との組み合わせによる二重奏曲となっています。 

(1980年作曲)

愛し子に贈る子守歌(いとしごにおくるこもりうた)/野村祐子編作曲

誰にでも知られている子守歌の中から、「こもりうた」「中国地方の子守歌」「五木の子守歌」「よだかの星の子守歌」「ブラームスの子守歌」「シューベルト の子守歌」をメドレーにしました。「よだかの星の子守歌」は、NHK名古屋児童劇団で宮沢賢治の童話「よだかの星」を公演した折に使った歌です。

(2004年7月作曲)

兎と亀(うさぎとかめ)/野村祐子作曲

みなさんご存知の「もしもしかめよ かめさんよ せかいのうちでおまえほど…」のおはなしを、三絃地歌作もの風二重奏にしました。歩みの遅い亀をからかっ て始まる兎と亀のかけくらべ。足の速い兎と、のんびり歩く亀の競争は、「歩みののろい亀はどうせ晩までかかるだろう」と途中で怠けて「ぐうぐうぐう」とい びきをかく兎の負け。この愉快な「兎と亀」の物語を三絃でお楽しみください。

(2002年作曲)

湖の笛(うみのふえ)/野村正峰作曲

中国の北宋の詩人、蘇東坡(そとうは)の詩に有名な赤壁(せきへき)の賦(ふ)があります。景勝地赤壁に遊んだ文士たちの中に洞簫(どうしょう)(中国の尺八)の名手がいて、その尺八の調べによって詩人は天の一角に窈窕(ようちょう)の美人を夢み、豊かな表現力でその尺八の切々たる調べを詩に歌いました。 蘇東坡ならぬ私は、とある湖畔に、ひとり静かに笛を吹く人の姿を立たせてみました。湖はとかく幻想を誘い、傷ついた心を慰めてくれる場所でもあり、詩人ならずとも心に詩を抱くことができる場所です。無心のその調べは、波紋のように湖水を渡って彼方の岸へ消えていきます。  曲は、ABCBAの構成で、Aの部分には三連音の掛け合い、尺八の係留音の間合いなど、演奏面のきめ細かい配慮を要求する曲です。

(1981年作曲)

海峡のまち(うみのまち)/野村祐子作曲

古来、明石大門として親しまれた明石海峡に面する新興都市、明石市の三曲協会十周年のイベントとして委嘱を受けて作曲された作品。
この地は明石原人、ナウマン象の化石などから有史以前の貴重な遺跡があるばかりでなく、柿本人麻呂の歌、在原行平の流罪伝承、源氏物語明石の巻などで有名な文学の街。東経135度の子午線の通る街でもあり、本州四国連絡の海峡大橋ルートの起点の街。箏曲千鳥の曲に歌う、淡路島を望む風光明媚の地で、話題の多い街なので、作品の焦点をしぼるのに苦心しました。

梅かおる城下町(うめかおるじょうかまち)/野村正峰作曲

早春の一日、ある城下町に盆梅を訪ねての感興を曲に綴ってみました。
 梅を素材にした曲は地歌、箏曲ばかりでなく、小唄、端唄などにも多く、詩文にいたっては万葉の昔から日本人の生活文化との深いかかわりをうかがわせます。
 迎春の風情、むせかえるような甘く清楚な香り、日本には無数にある城下町・・・・昔ながらの由緒を伝える街・・・・絵としても曲としても、何とよく以合う組合わせの存在でしょうか。

縁(えにし)/野村正峰作曲

「袖ふりあうも他生の縁」といいます。人と人との出会いは、運命のわか岐れ目といってもいいほど不思議な因縁でもあります。またこのようにして出会いの あった人たちと、同じ趣味、同じ仕事で結ばれるということは、本当に奇縁、奇遇であり、極めておめでたいことでもあります。
「縁を結べばあに兄やさん、兄じゃないもの、つま夫じゃもの」(長唄越後獅子) くだけた歌いまわしですが、ほのぼのとした家族愛、夫婦愛の心が伝わってくるようで、またその節まわしが何とも懐かしく心に響きます。
「日の本の国に、契り結べる因縁あるによりて、その報、豊かなるべし」(宇津保物語) 出会い、美しい愛情で結ばれる嬉しさ、こういう人間関係から生まれる豊かな稔りへの祈りを、この曲に託してみました。

1986年作曲

絵日傘に寄せて(えひがさによせて)/野村正峰作曲

豊田義一原作の「花かげ」「絵日傘」は、日本古来の音階で歌うことのできるという意味では、今では稀少価値ともいえるほどの逸品といえましょうか。この 「絵日傘」のやさしいメロディを合奏曲として、間奏には「えひがさくるくるとおりゃんせ」の歌詞にちなんで「通りゃんせ」をはさんで作曲してみました。

1995年作曲

鵬よ(おおとりよ)/野村祐子作曲

古代中国の思想を伝える古典として主にあげられるものに、孔子孟子らの儒学詩想と、孔子、荘子(孔子の門人の曽子と区別するため、「そうじ|と濁って発音 します)の道家思想があります。儒学と道家とは対立する思想として知られていますが、思想家たちの議論は専門家にまかせるとして、この曲では道家思想のひ とつである「荘子」を題材としてします。「鵬」は「荘子」の中の想像上の生物ですが、「荘子」の冒頭「逍遙遊」篇につぎのような話が載っています。

北冥に魚あり、其の名を鯤と為す。鯤の大いさ其の幾千里なるかを知らず。化して鳥と為るや、其の名を鵬と為す。鵬の背、其の幾千里なるかを知らず。怒して飛べば、其の翼は垂天の若し。是の鳥や、海の運くとき、則ち将に南冥に従らんとす。南冥とは天地なり。

「逍遙遊」とは、とらわれのない、自由なのびのびとした境地に心を遊ばせることで「小さな物事に拘らず物事を大きく見よ」というたとえに、途方もない大きなものとして鵬の物語を創造しているのです。
「南冥」とはいわゆるユートビア(理想郷)であり、鵬はまさにこの自由の天地を目ざして飛び立ってゆくのです。
この曲ではまず、鵬が羽を広げて飛び立つきまを箏で、空を掩いつくさんばかりの雄大な姿を十七絃の独奏と、それに続く合奏部で表現します。中間部 のゆったりした部分は「逍遙遊」の自由なのびのびした境地です。最初の主題が再現される後半では、鵬がユートビアを目ざして悠々と飛び去るきまを抽象的に 表現しようとしています。太平の世にあらわれる瑞鳥とされる鵬、もしこんな鳥がいたら・・・という憧れの心もこめ、祝典曲として作曲したものです。

幼き日の思い出(おさなきひのおもいで)/野村正峰作曲

「日本のわらべ唄」の続編ともいうべきわらべ唄集。
「かくれんぼ」「子守唄」「花いちもんめ」「手まり唄」を変奏的な二重奏として織りこまれ、間奏には幼い頃の思い出をえがいた子供達の遊びの楽しい情景のメロディが挿入されています。

1975年作曲

乙女椿(おとめつばき)/野村正峰作曲

いつの日のことだったか、鉢植の乙女椿があまりきれいに咲いていたので、買いもとめて我が家の庭に植えてやりました。小さな木でなかなか大きくなりませんでしたが、梅も桜も咲かない早春の頃から咲きはじめ、枝もたわわのほどに花を持って庭に彩りを添えてくれました。
それから十数年、毎年春のひとときを楽しませてくれたのに、このごろの家の増改築の騒ぎのうちに行方知れずになってしまいました。あのほのぼのとした薄紅色の八重の花びらへのいとおしい追憶の思いでこの曲を書いてみました。

思い出のわらべうた(おもいでのわらべうた)/野村正峰作曲

日本の各地で古くから歌いつたえられたわらべうたには、数えられないほど多くのうたがあります。歌詞もふしまわしも全国的にほぼ共通するもの、多少の変化 はあるがよく似ているもの、その土地により独特なものなど、さまざまな歌があります。わらべ歌の音階も、素朴な幼年期のうたのように3個の音だけで歌われ るうたもありますが、雅楽の影響を受けた陽旋系のうた、近世邦楽的な陰旋音階の上、下行音の区別まであるうた、途中の転調まであるうた、などさまざまで す。
同様の作品で既に刊行したものに、「日本のわらべ唄」「幼き日の思い出」などがありますが、この曲は、さらに義務教育の音楽の中に採用されたことのある歌をいくつか選んで、いわば「わらべ歌集パート3」というような感じに綴ってみました。
収録したうたはつぎのとおりです。


かごめかごめ、ひらいたひらいた、 うさぎうさぎ、えかきうた、なべなべそこぬけ

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