【300号】野村正峰の思い出~長城の賦~/野村秀子 - 正絃社

【300号】野村正峰の思い出~長城の賦~/野村秀子

正峰と秀子、七里の渡しにて
正峰と秀子、七里の渡しにて

「こんな曲を作ってみたのだけど、ちょっと試してくれないかな。」
といって見せられた曲は「長城の賦」。それは正絃社創立の一年ほど前のことでした。
正峰は、陸軍士官学校卒業の直前に旧満州国で終戦、人生の一大転機を迎えた帰国後は、医師や公認会計士を目指すも叶わず、失意のどん底から僧侶になるもまた失望の日々。まるで、明治の文明開化に乗り遅れた幕末のサムライのように、転身しそこねた人生。
しかし、その間にも、どういうわけか趣味の箏、尺八からは離れることなく、余暇をこの道楽に費やし、いつしか本格的なこの道の進路を定めるまでとなって、三、四年経ったころ・・・。
その曲は、百行に余る長篇の土井晩翠の作詩「萬里長城の歌」から16行ほどを抜粋して作曲したもので、箏独奏ほか高低2部、十七絃、尺八に加えて2部合唱の編成で、十五、六分に及ぶ大作でした。

 

当時の箏曲界は、古曲から現代曲への変遷の時代。私たちは演奏会に弾きたい曲に餓えていました。箏も尺八も、今と比べれば演奏レベルは低く、曲に も、これといって弾きたい魅力もないのが実情。演奏者のレベルに適してしかも、聴く人に安らぎを伝えられる曲が求められていました。
そのような頃、大阪で開催の箏曲大会で、この「長城の賦」を上演したところ、即座に反響があり、楽譜の問い合わせや曲についての感想や質問が寄せられたのです。
そのとき使った楽譜は、楽譜複製にいちばん安易な青写真のものでしたので、公刊のための活版印刷にあたり、原稿のチェックをすることになりまし た。たとえば、『巾』の絃を、たった一度使うために、調絃を変えるという使い方は能率が悪いので、他の絃での代用の検討を依頼。しかし、
「作曲者としてはこれが大切な音なのだ」と譲らず、それを何とか説得して、我慢してもらって直したものでした。
処女作「長城の賦」の作曲では、正峰はオルガンの鍵盤に尺八の符号(ロツレチなど)や箏や十七絃の糸譜を書いて、音程を確かめていました。後年、 作曲に手馴れたころにはオルガンも使わずに、楽器の数だけ割り振って線引きした楽譜を、尺八譜、箏譜、三絃譜など、それぞれの楽器の譜で埋めていきまし た。尺八は同じ記号でも、管の長さで音程が違い、また、箏や十七絃も調舷によって音程が異なりますが、頭の中で計算して翻訳していたのでしょう。
また、作曲を思い立つと、尺八の管と箏、十七絃、三絃などの調絃の組み合わせに熟考し、題材とする資料を読み漁って解説を書き上げることに力を注 いでいました。自分の世界に没頭する時間は、至福のひとときだったのかもしれません。楽譜用紙はまだ白紙のままなのに、『作曲の仕事の半分はできた』と 言って、出来上がりを待つ周りをヤキモキさせるのが困りものでした。

実は、「長城の賦」の原曲には、最後の歌の前に、

衰(すい)蘭(らん)露に悲しめば 遺宮(いきゅう)空しく草の宿
 驪山(りざん)の麓(ふもと) 春去れば花ことごとく涙なり

という詩と箏の独奏部分がありました。あまりにも「長篇の賦」となりそうだったので、本人も諦めて割愛したのでした。今は、独奏部分がどのような 旋律だったのか覚えていませんが(青写真譜を持っている人があれば…)、「長城の賦」の終曲近く『晴れざる空に虹かけし…』と歌うところで、私は時おり 『衰蘭露に悲しめば…』と、歌いだしそうになります。

音楽の三要素は、『メロディ(旋律)』『リズム』『ハーモニー』(または音色)ですが、旋律の美しさは、その曲の命とも言うべき重要なもの。「長城の賦」の悲しさとも懐かしさとも表現し難い、美しい旋律に私は心惹かれて、弾くたびに泣かされてしまうのです。

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